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全国にアナウンサー等を多数送り出している 生田教室

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卒業生の声2021voice

「生田教室に学んで」 FM徳島アナウンサー(内定) 湯浅 暸子


私の母は、地元徳島県でアナウンサーをしている。母が1人いるだけでその場の空気が華やぐ、そんな人だ。
一方、娘の私の幼少期はというと、友達におもちゃを横取りされても「返して」の一言が言えない。
自信はない、おっちょこちょいだしすぐ転ぶ。まさに鷹が鳶を産んだような親子だった。

そんな私の目にも、地域の魅力を自らの声を使って届ける「アナウンサー」という仕事は、輝いて映った。
「自分を嫌いなままではいたくない。」「憧れを目標にするんだ。」
高校三年生の時にそう誓い、地元を離れることを決意。
関西の大学に進学し、大学2年生の梅雨、生田教室の門を叩いた。

生田教室では、アナウンスの技術はもちろん、社会人としての心構えも教わった。
報告・連絡・相談はすぐにすること、挨拶やお礼はその日のうちに、常に周りに目を光らせるなど、
週に2回、先生方や先輩方と過ごすだけでも、手に収まりきらないほどの学びがあった。学んだ分だけ、自分を認められるようになっていた。

そして気付けば迎えていた就職試験の時期。10人以上いた同級生がポツリポツリと居なくなっていく恐怖。
2社連続で最終試験に落ちた日は、悔しさで泣いた。
だが不思議と、「アナウンサー就活を辞める」という選択肢は無かった。
「ここまで来たのにやめるものか!絶対になる!」生田教室で学んだ日々が私を強くしてくれた。

忘れもしない11月2日。生田の授業終わりに、地元徳島県の局から内定通知をいただいた。
「本当に?私が地元でアナウンサー?」手が震え、胸の下から熱が湧き上がった。
あの興奮は一生忘れないだろう。

高校三年生の時に想像していた100倍以上、険しい道のりだった。
だがこの2年半、凸凹道を転びながらも登りきれたのは、優しく時には厳しく指導してくださった先生や先輩方、毎日共に練習を重ねた同期、慕ってくれる後輩がいたからだ。

これからも険しい道は続くだろうが、強く自分らしく放送に携わっていきたい。

「生田教室に学んで」 矢掛放送アナウンサー(内定) 倉田 穂乃花


生田教室名言、其の26「しつこくて諦めないことが向いているということ」

自分に自信が持てない私には、「アナウンサー」という職業が向いているのかという疑問がずっと付きまとっていた。けれど、取り組み続ける姿勢が「向いている」ということに繋がるとこの言葉に教わった。この言葉は、周りに負い目を大きく感じていた私を内定まで連れてきてくれた。

私は、3年生の12月に入学をした。1・2年生の募集しかなかったにも関わらず、教室の門を叩いた。この時の私は、結構思い切ったことをしたと今では思う。この始まりがあったからこそ、どんなことがあっても最後まで続けることができたのかもしれない。

私の入学を認めて下さった生田教室、成長が遅くても指導し続けて下さった講師の皆さん、急に加わったのに仲間として受け入れてくれた同級生。私は、こんな素敵な環境で、温かい方々に囲まれて、人生最大の挑戦をすることができた。

しかし、挑戦の途中は、この恵まれた状況に気づくことができない期間が長かった。同級生にだけでなく、後輩にまでも劣等感を持ち、前に進めなかった。
そんな私の様子を見て、「あなたも皆と同じ受験生。一緒に勉強を『させてもらっている』のではなく、『している』のです。」と先生に仰って頂いた。その瞬間、今までの私の心持ちは、周りの方々に失礼なものであったと気が付いた。

ここから、私はアナウンサーになりたいという自分の夢に遠慮をしなくなった。何度も転びながらではあったが、常に足を前に動かし続けた。
そして、内定というゴールテープを切った時の歓喜を私は一生忘れない。ゴール手前では、自分に追い風が吹いていることさえ感じて心地が良かった。

今でも自信を持って自分はアナウンサーに向いているとは言えない。けれど、一つだけ声を大にして言いたい。今、アナウンサーになることに一番ワクワクしているのは「私」だ。


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