生田教室に学んで、私は一社会人としての礼儀を身につけることができた。
生田教室に入って3回目の授業で、私は石川先生に「アナウンサーをなめているでしょう」と言われた。その時の私はその言葉がどういう意味なのかも分からず、悔し涙もでなかった。しかし、2年間生田教室で学び、いかに自分がアナウンサーとして公に出て発言するということ、社会に出るということを甘く見ていたのかを知った。
今は、アナウンサーを諦めかけていた私を奮い立たせて下さった先生方、同期のおかげで、テレビ和歌山でアナウンサーとして働いている。出来ない自分に落ち込み、反省を繰り返す毎日だが、アナウンサーという仕事ができる日々はとても充実している。生田教室で学んだ、技術はもちろん、礼儀がこんなにも大切なことなのだということを、社会人として1年間働いてとても実感している、
この先のアナウンサー人生も、生田教室で学んだことを誇りに、精進していきたい。
大学2年の2月、教室のドアを叩いた。
見学の授業で先輩の読みを聞き、私もこうなりたい!と思い入門を決めた。軽い気持ちで決めたことを少し後悔した日もある。私は中学受験以来、学ぶことから逃げてきた。そんな私がアナウンサー。初めは、友人も家族も驚いたが反対はしなかった。だから、頑張れたのだと思う。
入門して約3年、突然の出来事に夢を諦めることも考えた。しかし、そんな私の背中を押してくれたのは卒業生の方々や先生方、同期だった。考え方が幼稚だった私を見捨てず、信じて指導してくださった。泣き虫な私に何度も、「強くなりなさい」と喝を入れ人間としても育てていただいた。
春からは、放送人として人前に立つ。まだ少し弱虫な私は、本当は不安でいっぱいだ。でも、教室で学んだことや出会えた人がいる私は、ある意味「無敵」だと思う。素敵な先輩方に負けないよう、私も夢の舞台で働きたい。ありがとうございました。
初めて生田教室へ来た日、今まで私が暮らしていた世界とは180度違う世界に足を踏み入れたと感じた。
私なりに覚悟を持って来たはずだったのに、ホワイトボードに書かれている「放送人」の定義を見たとき逃げ出したくなった。また、入門して生田教室のルールを読んだときは、どうしてこんなにルールが多いのだろうと正直思った。
やっと慣れてきたのは、入門してから半年ほど経ってからだった。しかし、半年たった時にはすでに試験が始まっていた。思うような結果が出ず、不安で不安で仕方がなかった。私には、この業界が向いていないのではないかとも考えるようになった。試験に何度も何度も失敗していくなかで、やっとホワイトボードに書かれている「放送人」の定義が私なりに理解できるようになってきた。そしてどうして生田教室のルールに学生脳を捨てることや服装のこと、さらには傘に関するルールまで決められているのかがわかった。それと同時に、私が今から飛び込もうとしている世界が如何に責任を伴うのかということも実感した。世の中に出ていない情報を伝えることや、人の人生を左右する可能性があることに気づいた。
生田教室で、アナウンサーになるための技術や心構えだけではなく、放送人として、一社会人として、そして社会に出てから即戦力になるための基本的なことも学ぶことができた。生田教室に入門していなかったことを考えると恐ろしくなる。生田教室に通ったことで、社会にでるための有意義な時間を過ごすことができた。そして一生切磋琢磨しあえる刺激的な仲間に出会うこともできた。生田教室でたくさん学ぶことができたことに心から感謝します。
3年生の6月中旬、初めて生田教室に来た。まず玄関で靴を脱がずに土足で入り、先輩にここは土足じゃないよと言われた。自分の気持ちも同じだったように思う。最初は特にアナウンサーになりたい訳ではなかった。人前で話すことが好きな訳でもなければ、常日頃から声が大きく、ハキハキとしているタイプでもない。だが、縁があり教室に通うことになった。最初は真剣な人たちの中に、自分のような素人が土足で上がりこんでいる様で申し訳なさがあった。当時のC組には男性は私一人だけだったが、読みもフリートークもできない私を受け入れてくれた。
約10か月後、晴れて内定を頂いた。今でも先輩方のように怒られ、泣いて、歯を食いしばってといった“怖い”生田の思い出はない。私にとって生田教室は、下を向いて歩いてきた自分に、前を向いた方がしっかり歩けるよと、道を照らし導いてくれた存在だと思う。
濱野校長はじめ、ご指導いただいた講師の方々、本当にありがとうございました。
「ニュースを読む人になりたい」番組観覧でニュースを読むアナウンサーに憧れて、生田教室の門をたたいた。授業を受ける先輩方はキラキラしていて、もう本物のアナウンサーなのではないかと思うほどだった。
「私も早くあんな風になりたい」
練習に打ち込んだ。アクセントは間違えない。やり直しもない。先生に怒られない。真面目な自分を装った。怒られないように、嫌われないように、いつも慎重に突拍子もないことをするなんて信じられなかった。
アナウンサー試験が始まった。もちろん真面目に準備をした。先輩の受験ノートを見て自分だったらどう答えるか、ノートにまとめた。
「よし。準備万端。」面接ではノートにまとめていない質問も当然ある。答えにつまる。それをまたノートにまとめて、次は答えられるようにする。そのうち「今回もノートにまとめた以外の質問をされたらどうしよう」「それ以上聞かないで欲しい」面接が怖くなった。
あっという間に秋になった。それでもまだ面接が怖い。どうにかしなければならないと思えば思うほど緊張した。どうすれば良いのか分からず「どうにでもなれ!」と面接を受けた。「あれ?楽しい」自分のことを素直に話せた。「これで良いんだ」面接を初めて楽しいと思った。
「面接ではガードせずに行けば良い」「普段の自分より大きく見せることは出来ない」
濱野先生に教えて頂いたことが少しずつ解ってきた時、内定を頂けた。
今まで何かを本気でやり遂げようと思ったことすらなかった。何でもそこそこ。そんな私を、放送人としてのスタートラインに立たせてくださった先生には、感謝してもしきれない。生田教室でたくさんのことを学んだ3年間。受けた授業は288回。すべての教えを胸に、放送人として大きく羽ばたきたい。
「よっちゃん、気持ちで下がったらいかんよ。転ぶときは派手にズッコケてください。」
濱野校長の言葉で、僕が大切にしているものの一つだ。特に若いうちは全てにおいて「思い切り」取り組もうと思う。プロボクサーとして一試合しようと胸を燃やすことができたのも、この言葉のおかげだ。
大学3年の10月に入門し、そこから週に2回の教室で学び、今となってはとても短い期間であったが、それでもその時間の中で一つ一つの学びに触れることで、僕は大きく変わることができた。
例えば、教室で使う教科書。原稿で「007」について書かれた文章がある。「007」が好きな僕にとって、それはただの原稿ではなく、それをきっかけに違う作品を観ようと思えた。原稿に書かれている内容が、生活に結びつくことを実感した。そしてその原稿を読むということは、生活に結び付くモノを伝えるということ。つまり、読みを落ち着かせることで、話し方も落ち着かせるのだということが理解できたのだった。
「とにかく落ち着くことです。困ったときほど、一呼吸するといいでしょう。“間”というものを身につけてください」
濱野校長からこの言葉を頂いたおよそ2か月後、内々定の電話が来たのだ。(しかも2つも…その日熱中症でダウンしていた自分には、最高の回復薬だった)
アナウンス受験で大切だと分かったこと、それは今後歩む道においても、忘れてはならないと、日々自分に言い聞かせていることがある。心である。普段からの人間性だ。他人と比べたり、結果が出ないことに対して一喜一憂するのではなく、ただひたすら前向きに続けるのだ。楽になれるのではなく、どんどん忙しくしてやればいい。そこで初めて息抜きの時間や休息が活きてくる。
教室での1年と4か月という短い時間の中で変わることができたのは、間違いなく、週に2回休まず来なさいという教室の伝統があったからだ。この出逢いこそ誇りである。
「あなたはまだ大学生になったばかり、もっと学生として、今しかできない経験を積んでからまた来なさい。」四月の始め、見学依頼の電話をかけた私に先生は言った。それからは入学日が待ちどうしくて仕方がなかった。
「あなたは四月から電話をかけてくれたのに、努力はしないのね。」入学して一ヶ月、ふいにかけられた言葉に驚いた。これでも、精一杯頑張って練習していたつもりだった。「プロ」の厳しさを痛感した。
それからの二年は我武者羅にやり抜いた。学びの中で、様々な出会いがあり、別れもあった。ただ一つ変わらなかったのは、「絶対にアナウンサーになるんだ」という気持ちだった。そしてそのためには、誰にも、何にも負けるわけにはいかないと思っていた。
三年の夏、いよいよ受験が始まった。なかなか一次が通らない。特に学生時代について聞かれることが苦手だった。この時になって始めて、「学生としての経験を積んでから」という先生の言葉の意味が痛いほど分かった。
しばらくして、教室から内定者が出た。その波は徐々に広がり、ついには内定していない者は私一人となった。教室で誰よりもキャリアの長かった私。負けない、負けたくないと一心不乱に頑張ってきた。時間が経って安売りされ、なおも売れないスーパーのお惣菜の気持ちが痛い程分かった。
「どうしてそこまでアナウンサーになりたいの?」年明けに面接官に聞かれた言葉である。最初は単なる憧れだった。しかし、教室で学んでいくことで、その大変さや面白さを知ることができた。そう思った時、自分の中でピースがつながる音がした。キャリアとか経験、読みの上手さではない。大切なのは自分のやりたいという思いなのだ。
それからはあっという間の内定だった。自分でもこんなに変わるものなのかと驚いた。合格して最も嬉しかったのが、教室の仲間が心から喜んでくれたことである。
三年と四ヶ月。教室に通った日数である。それは同期の誰よりも早く、そして誰よりも遅い。しかし、この長い日々は一番の誇りである。なぜなら、遅咲きの桜はみんなが心待ちにしてくれていた暑さに負けない、強い桜なのだから。